エドワード・W. サイードの検索結果

エドワード・W. サイードの検索結果
DHCオンラインショップ

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

Amazon価格:¥ 882 (定価:\ 882)

通常24時間以内に発送

エドワード・W. サイード | 平凡社 | 1998-03



星4つ | 「権力=悪/弱者=善」というステレオタイプに乗っかった知識人論
端的に指摘すれば、本書を通っているドグマは「知識人はどんな場合にも、二つの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」(p61〜62)というものだ。サイードがとるのはもちろん前者である。そして、彼によれば、知識人というものは「なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間」(p49)であり「権力に対して真実を語ること」(第5章表題)をしなければならないのだという。

彼の指摘は半分は正しい。正しい半分というのは、知識人は「検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である」べきであり、「真実を語る」べきであるということに対してである。正しくない半分というのは、批判をしたり真実を語る対象が一方に定められている点である。知識人は、相手が権力者であろうと弱者であろうと、要するに誰であろうと、無批判な追従はすべきでないし、自身の思惟に基づいて真実を語るべきである。
サイードの論の根本的な問題点は、「権力・伝統=力を持つ者=悪/マイノリティ=弱者=善」という、ステレオタイプな二項対立に固執してしまっている点にある。任意の議題に対して、権力サイドの主張が正しいか、それとも弱者サイドの主張が正しいかは、それは実際に双方の意見を聞いて、きちんと考えた上で下される結論のはずである。すなわち、権力サイドの意見も弱者サイドの意見もきちんと聞いた上でならば、知識人はいかなる結論をも下しうるわけであり、そこでたまたま権力サイドの主張の方が妥当性が高いと判断したところで、それはなんら問題ではない。
ところが、サイードは、双方の意見を聞いて自身の見解を出す前に、「先行して」弱者サイドの主張をそのまま自分の意見にしなければならないというのだ。

そして、彼に言わせれば、知識人が権力サイドの主張の方に妥当性を認めることは「迎合」「屈服」「何も考えていない」ということと同義なのだ。

以下は推測だが、サイードは、力によって目を曇らされない限り、思考力ある人間ならば誰しも自分と同じ結論に達し、同じ主張を行う、と信じ切っているのではなかろうか。
だからこそ、彼は湾岸戦争について「(前略)戦争と、それに付随する殺戮という目標を回避できたであろうべつの選択肢をしめすことこそ、当時、知識人が果たすべき責務であったのだ。」(p48)と言う。彼が何らかの思惟を経て湾岸戦争に批判的な見解を抱くのは自由である。しかし問題は、彼以外の知識人もまた、彼と同様の見解を抱かねばならないという点にある。

こうした知識人の最大の問題点は、自分たちのような「反=権力」「反=政府」の思想が知識人界においては圧倒的多数を占め、主流化し、力を握るようになっているにもかかわらず、その力の存在をひた隠しにし、自分たちこそは少数派、弱者であると言いまわっている点にある。今日のように、警察が権力批判者を刑務所にぶち込むことなど考えられない先進国では、知識人にとっての「権力」というのは、まさしく知識人の世界において自分の居場所をどれだけ安定させられるか、という点にかかってくる。そして、今日の知識人界がまさに「反=政府」で主流をなしている以上、まさしく「反=政府」的なサイドこそが権力サイドなのである。権力の側の主張を行うなとは言わない(これはすでに記した通り)が、自ら権力の座にいながら、他人を「権力の手先」と罵るのは愚劣極まりない。


オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

Amazon価格:¥ 1,631 (定価:\ 1631)

通常24時間以内に発送

エドワード・W. サイード | 平凡社 | 1993-06



星4つ | 他者・異人への想像力を制御する技術
 1978年に発表された著作。フーコーの方法、特に「監獄の誕生」で用いられたディシプリンという視点と、これも序文で言及されているグラムシのサバルタン概念を立脚点にして作り上げたと思われる「オリエンタリズム」(東洋学)に関わる作業仮説を、多数の例証と読解、解釈で証明しようとした1冊として読める。
オリエンタリズムは一つの学問分野としてナポレオンのエジプト遠征以来明確に形成されたことが示されるが、学問分野としての形成の仕方、研究者団体の組織化と社会化・政治化、研究対象を系統だって把握し、関連する知識の蓄積・精緻化を目指す姿勢は、村上陽一郎氏の著作で示されている自然科学のそれと余り変わらない。オリエンタリズムが他の科学と異なるのは、その対象が一定の地域(オリエント)に実際生活している人々、飯を食い市場を歩き回る人間、心に痛みや喜びを感じ、泣き、笑う人間であることだ。オリエンタリズムがその学問分野・文化の表象で目指すディシプリンは、オリエントの人々がオクシデントの人々と本質的に同じ人間として取り扱うことが出来るしそうすべきであること、オリエントの人々が日々過ごす生活をオクシデントの人々は知ろうとしていないこと、そんなことに思いを至らせるような想像力を働かせないように組織されていることが、この上巻では示されている。上記のディシプリンを要求するのは帝国主義の宗主国としてのイギリス及びフランスが植民地としてのオリエントに対して政治・経済上握っている利害であり、オリエンタリズムも政治・経済上の利害と相互に勢力を強め合い利益を得ていた様子が何度も示される。

 この書物はオリエンタリズムという問題領域自体を作り出した1冊といわれているが、私たちの日々の振る舞いにも敷衍して用いることの出来るという意味で、とても身近な内容だと思う。


オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

Amazon価格:¥ 1,631 (定価:\ 1631)

通常24時間以内に発送

エドワード・W. サイード | 平凡社 | 1993-06



星4つ | イギリス・フランス・アメリカ、それぞれのオリエンタリズム、そして本編発表後の余波
 下巻は、上巻でオリエンタリズムの問題領域の提示、19世紀にオリエンタリズムが制度化されていく様子が第一章・第二章として記述されたのをうけ、19世紀末から第一次世界大戦までの間に、オリエンタリズムにイギリス的・フランス的という違いが大きく現れたこと、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの間にオリエンタリズムの担い手がアメリカに移ったこととオリエンタリズム自体の変質を扱った第三章、本編発表の7年後に発表されたオリエンタリズムに関する再説、日本人研究者の杉田英明氏の解説、訳者解説と上下巻共通の原注・索引が収録されている。
 オリエント、特に本書で論じられている西アジア・エジプト・インドで実際に植民地を統治していたイギリスでは、オリエントに対する認識が行政的・経済的・軍事的な操作手法へと変わり、その変化に応じてオリエンタリズムもより現実的になった。頻繁に用いられたのは「我々と彼ら」という区別=差別の図式と骨相学・人類学による人種類型を政治・文化の領域に拡大して適用する手口など、そんな手法でブリティッシュ・オリエンタリズムは植民地支配を正当化するどころかオリエントへの恩恵とさえ表象した。対してフランスでは当該地域にもはや植民地をほとんど持てなかったのでオリエントを自分たちの幻想・異国への象徴として観念し、オリエンタリズムもそれに応じて混乱と暴力と性的奔放さ、というイメージを流通させた。もちろんどちらのオリエンタリズムも実際のオリエントの存在を無視していたことに変わりがない。
 そんななか第一次世界大戦後に国際政治のヘゲモニーを確立したアメリカは、それまでの覇権国家だったイギリス・フランスからオリエンタリズムの使用権を継承することになった。この事実だけでもオリエンタリズムという学問分野が科学というより政治技術であることが示されているが、以下、著者はアメリカでのオリエンタリズムの特質を指摘する。それは、アメリカニズムをプロパガンダする前提としてオリエンタリズムの学習制度を作り上げたことと、アメリカン・オリエンタリズムが強く性行為を含意するようになったこと(男としてのアメリカがか弱い乙女としてのオリエントを組み伏せる)の二つだ。より消費イデオロギーを広げていくアメリカニズムが同時にオリエンタリズムも使いこなすことへの強い疑義と共に、全三章の論述は幕を閉じる。
 1985年に書かれた再説は、本編発表後に起こった著者本人の認識の深まりと、周辺で巻き起こった論争、彼の問題意識を受けた数多くの研究の紹介がされている。

 この著作が発表されたことで、明らかになったことは数多いようだ。そんな意味でこの本は世界を変えた一冊だと思う。内容に賛成するにしても反対するにしても、この著作自体にオリエンタリズムを働かせない限り、この1冊の業績は失われないだろう。


+ 商品検索 +
+ PR +